2024年3月、岐阜県のご招待で、中山道をハイキングしてきました。中山道は東京の日本橋から京都の三条大橋を結ぶ、途中に69の宿場町のある街道です。
岐阜県には、東京から見て43番目の馬籠(まごめ)宿から59番目の今須宿まで17の宿場があります。
旅の大まかなルートは、東京から見て48番目の細久手(ほそくて)宿あたりから、43番目の馬篭(まごめ)宿まで、西から東に向かって進むもの。途中、道路が整備された所などは車を使い、限られた時間で最大限に魅力を感じられるルートを選んでいただきました。
細久手宿と大湫(おおくて)宿(東京から47番目)の間にある、琵琶峠を歩いた記録をお届けします。
琵琶峠を西から東へ
細久手宿の東に中山道宿場めぐりの道 という杭があります。ここから中山道のハイキングが始まりました。時刻は午前11時すぎです。
細久手宿から東へ進むとあるのが琵琶峠です。
平成17年の市町村合併により、当時は長野県山口村だった馬籠(まごめ)宿が岐阜県中津川市に越県合併し、岐阜の宿場町は17となりました。それまでは岐阜県内にある宿場のことを「美濃十六宿」と呼んでいました。今でも、昔を語る際には美濃十六宿と呼ぶことがあるようです。
琵琶峠は美濃十六宿でもっとも高いところにある峠で、全長730メートルほどの日本一長い石畳が敷かれる中山道の名所です。
中山道は江戸時代以降に整備されました。琵琶峠では江戸時代に作られた石造物などが今も残っています。
この日は日差しもよく、石畳に木漏れ日の影が際立っていました。
差し入れして頂いた五平餅を食べて(ゴミは適切に処分しました)、いざ出発。
RPGの世界に足を踏み入れたかのよう
たとえが現代的ではありますが、ロールプレイングゲームの世界に足を踏み入れたような気がしました。
杉の木が幻想的な影を作り、石畳の峠道を立体的に浮かび上がらせます。
側溝にも当時のままもの部分があるらしく(上の写真がそうかはわかりませんでした)、流れる水や苔も風景に彩りを加えてくれます。
現存する一里塚が立派
こうした街道には、1里(約4キロメートル)おきに、一里塚と呼ばれる塚が築かれています。琵琶峠には昔のままの姿が残る、八瀬沢一里塚があります。ここからは江戸へ91里、京都へ43里を示しているのだそうな。
一里塚は、本来は街道の両側に作られるものだそうですが、壊されたり、経済的な事情でそもそも片方・両方作られない、といったこともあったのだとか。八瀬沢一里塚は身長を超える高さの塚が2つ、こんもりと鎮座しています。
これを目指して旅をしたり、きっと一里塚を休憩ポイントにしていたのだろうなあ、などと思いをはせながら通りました。
ビジネスで「マイルストーン」なんて言葉を使う人もいるかもしれませんが、一里塚は、あれと語源や使われ方も似ています。1マイルは約1.6キロメートル、1里は約4キロメートルの違いはありますが、ともに中間目標のような意味合いで現代でも使われる言葉です。
旅人を見守る馬頭観音
琵琶峠の頂上には馬頭観音(馬頭様)が祀られていました。馬頭様はこの旅の行程で何カ所も祀られており、旅人の安全を祈っていたことが伝わります。
休憩所もありました。ここからは南東の見晴らしがとても良かったですよ。
頂上を過ぎてからはひたすら東に向かって下っていきます。石畳は土や枯れ草で覆われた道と比べると滑らずに進めますが、上りに比べると足下の注意で景色を見る余裕がなくなりますね……。
足下に気をつけて下っていくと、いつの間にやら琵琶峠の東上り口の石碑が。そして、この先はアスファルトで整備された中山道が続いていました。
ああ、ここで琵琶峠の石畳も終わりか。振り返ってみると今まで下ってきた石段が僕を見下ろしています。
東京から京都に向かう際は、さあ峠を越えるぞ!と、この階段を上っていくのですね。
石畳と林道を楽しめる琵琶峠
現代の中山道は往時の雰囲気をいまなお感じとれる、風情あふれる街道です。琵琶峠の石畳は整備がしっかりされていて、安全に歩ける道でした。
自然あふれる街道と宿場が交互に現れる中山道は、欧米からもハイキングに訪れる人が断たないのだそう。今回訪れたのは3月ですが、新緑のころや秋の風情も楽しそうな峠だなと感じました。
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