【中山道 十三峠】10キロ以上続く中山道随一の難所を歩いてきた

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「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」

江戸時代から中山道の3難所を指して、こう言われていたそうです。中山道は東京・日本橋から京都・三条大橋を結ぶ街道で、途中に69の宿場町があります。現代で言えば、中央自動車道に近いルートで東京と京都を結ぶ街道といえば分かりやすいでしょうか。

しかし、様々な街道を歩いているマニア層から、その3か所よりも難所なのではと言われているのが、日本橋から46番目の宿場町である大井と47番目の大湫(おおくて)の間にある十三峠です。

2024年3月、岐阜県のご招待で十三峠を歩く機会を頂き、アップダウンの激しい複数の峠道を10キロ以上踏破しました。

ツアーは岐阜県側から長野県方面に、東へ進むもの。大湫から大井に向かって歩いたのですが、確かにここは歩くのが大変です。現代の動きやすい服装・装備ですら大変だったのに、昔のひとはどうやって踏破していたのだろう、と不思議に思うほどの道でしたよ。

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十三峠がいかに「難所」なのか

十三峠は、およそ下に表示した地図のルートを通ります。

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中山道における十三峠は、2点間をできるだけ直線になるよう結んだモノらしいんですね。山道を迂回する「中街道」というルートがあるらしいのですが、それとくらべて、これだけ高さが違う!と調べてくださった方がいます。

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やりとりの詳細は記事を最後まで読み終えたあとにこちらでどうぞ。

この高低差を体感するハイキングになりました。

十三峠を東進

大湫宿から東に進むことしばらく。

是より東 十三峠
道中安全

の石碑が見えました。

石碑の後ろにある坂が、普段の僕なら避けるレベルの勾配です。

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迂回すればある程度平坦になるところを尾根道として開通したくらいですから、比較的まっすぐな道が続きます。土や葉っぱに覆われた道が多く、アスファルトに比べて足の負担が小さいのを実感できます。

旅人の安全を願った三十三所観音石窟

峠に入ってまもなく、中仙道ゴルフ倶楽部の真ん中を突っ切るように進みます。ゴルフ場の真ん中を突っ切る中山道、誰が所有しているんでしょう。

脇にはほこらがあり、33体の馬頭観音が祀られていました。ここは三十三所観音石窟といい、近隣の飛脚や馬を所有する人らが寄進して作ったそうです。

よく見るとカラフルなゴルフボールも祀られています。現代ではゴルフのスコアアップの御利益があるのかもしれませんね。

旅人を見守る一里塚

ゴルフ場を抜けると、そこにはこんもりと盛り上がった塚がありました。これは一里塚(約4キロ間隔で設置されている旅の目安)でここは権現山一里塚という名称でした。権現山一里塚は、江戸から90里、京都から44里の道しるべです。

こうした景観は江戸時代からずっと変わらないものらしく、長い年月を経て、なお同じものを見られるありがたみを感じます。開発してより便利を目指すのもいいですが、昔から変わらないものを残すのもいいものです。

十三峠は複数の峠・坂のあるエリアです。場所によっては道路が舗装されて車が通れるところもありますし、後に開発された道路と交差するところもあります。道中に茶屋や自販機などがあまりないので、水筒やペットボトル・場合によっては食料も持参した方が良いと思いますよ。

地面に現れる石の牡丹

十三峠を4割ほど進んだころ、紅坂にさしかかりました。ここの足下には、花崗岩が花の模様に見える「紅坂のぼたん岩」があります。

花崗岩の「たまねぎはく離」という現象の標本でもあるそうなのですが、貴重なその標本を踏んづけてしまえるのもちょっと面白いです。この形状を完全に模写した「ぼたん岩せんべい」なんか作ったら、いいお土産になりませんかね。

紅坂にも一里塚があります。ひとつ京都寄りの権現山一里塚からここまで、約4キロを1時間半ほどで移動しました。細かな休憩を入れつつ、疲労を適度に散らしながら進むと、このくらいかかる感覚でしょうか。

ここは江戸から89里(約356キロ)、京都へ45里(約180キロ)と言われた場所ですから、江戸から京都に向かって中山道を進んだときに、ほぼ3分の2を進んだことになるわけですね。

十三峠の東寄りには首なし地蔵や西行ゆかりの地が

2時間半以上も歩いた十三峠もいよいよ終盤。1756年(宝暦6年)に地元の方々が旅行者の道中安全を祈って建てたお地蔵さんの首を、中間(公家や寺院などで働く人)が切り落としてしまった、といわれる首なし地蔵がありました。

なんでも、同行した中間が寝ている間に首を切り落とされて亡くなっていたことにお地蔵さんが気づかないことに生存した中間が怒った、という言い伝えです。

こうしたお地蔵さんも大切に守られているのがちょっと面白いですよね。まあ、いいか。というおおらかさを感じます。

伊勢神宮へのお参りは、江戸時代の人々にとっては、超一大イベントです。行けずに生涯を終えた人も多かったことでしょう。

しかし人々は、全国各地に、直に参詣できなくてもお参りできる遙拝所(ようはいじょ)といわれる場所を設けていました。十三峠にも伊勢神宮の遙拝所がありました。

遙拝所から伊勢神宮を直接見ることはできませんでしたが、そちらに向かって手を合わせればいい、と。日本人の信仰って、1度何かをしたら100回やったことになる、とか、遠くからでも手を合わせればお参りしたことになる、といったおおらかさがあるのが好感持てます。

十三峠を東に進んで、最後の印象的なスポットは西行の森でした。ここには100本以上の桜が植えられています。満開の季節に来たら、さぞや美しいことでしょうね。

平安時代の僧侶・歌人である西行の墓は複数の場所にありますが、十三峠の東となる岐阜県恵那市にもお墓があるのだそう。

晩年の西行の歌に

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の望月のころ

というものがあります。桜をこよなく愛した西行にちなんだ名所として、平成元年に生まれたのが西行の森なのだそうです。

この景色がさくら色に染まったら、さぞや美しいことでしょうね。

足がパンパンに張った十三峠

いつの間にか整った石畳が現れ、下りきったところでふと振り向くと、そこには

是より西 十三峠

の石碑が。実に3時間以上の時間をかけて10数キロの道のりを歩き切りました。

峠道を歩いていて思ったことは、

  • 昔の人の脚力はすごい
  • ゴミが落ちておらず、中山道を歩く人たちのマナーが良い

ことです。途中でも欧米の方のハイカーを見かけることがありましたが、そうした方々のマナーが良いのでしょう。これから峠歩きをする人が増えても、こうした景観が守られる十三峠であってほしいです。

急勾配の道が多い十三峠でしたが、勾配の写真が少ないのは歩くのに一生懸命だったから……。現代の歩きやすい服装・靴でこれだけ大変だったのですから、当時の人はクッションがない草鞋(わらじ)のような履き物で、よくあの峠を歩いたものです。

道中、峠と峠の間には舗装された道路があり、人々が生活している町並みを見ることができました。飲料の自動販売機はそうしたエリアにありましたが、ペットボトル一本分は常に予備があるくらいで歩いている方が安心だと思います。

また、公衆トイレはおよそ30分から1時間歩くくらいの間隔で設置されていましたが、訪れた3月中旬の時点では「冬季期間により閉鎖」のものが数カ所ありました。緊急時にこの張り紙を見たら、心くじけます。余裕をみて用をたしておいたほうが良さそうです。

ともあれ、約3時間、自然と歴史を堪能できました。普段、ハイキングをする方ではないので、その後数日は足がパンパンになりましたけれど、楽しいひとときを過ごせましたよ。

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