関ケ原の舞台・岐阜県と神田明神がコラボを発表。両者を結ぶ歴史的なご縁とは

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石田三成との争いに勝って徳川家康が覇権を握った関ケ原の合戦と、東京・お茶の水にある神田明神を結ぶご縁が何か、ご存じでしょうか?

いくつかありますが、一つは中山道で繋がっていること。もう一つは近年あきらかになった、家康が関ケ原の合戦に出立する際(江戸を出る時点で行き先は関ケ原と決まっていなかったけれど)に神田明神に戦勝祈願したことです。

そんなご縁のある岐阜県と神田明神がさまざまな領域でコラボを行なうことになり、記者発表会が2023年9月21日に「神田明神文化交流館 EDOCCO 4階 令和の間」で行なわれました。お招きされ、伺って参りました。

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連携事業の概要

はじめに、岐阜県観光資源活用課 課長 北村和弘さんから連携事業の概要について説明がありました。

岐阜県では中山道や関ケ原を広く世に知らしめたいと情報発信を続ける中で、神田明神に家康が戦勝祈祷をしていたことを知り、コラボを提案しました。

岐阜県と神田明神の繋がりは大きく3つあるそうです。

  1. 平将門命(たいらのまさかどのみこと)の縁
  2. 関ケ原の戦い
  3. 家康が開いた中山道は、神田明神と関ケ原を結ぶ

それぞれについて細かく説明がありました。

平将門に関わるご縁

平安時代の豪族・平将門は西暦940年3月に承平天慶の乱で命を落とし、京都でさらし首になったそうです。しかしその首が故郷へ帰ろうと宙を飛んだという言い伝えがあり、それを矢で食い止めたさいに落ちたのが岐阜県大垣市だそうです。同市には「御首(みくび)神社」があり、平将門が祭られています。

一方、神田明神では長きに渡って平将門を祀っています。神田明神の移転により今の敷地内にはありませんが、いまも平将門の霊を慰める神事が執り行われています。

関ケ原の合戦前に家康が戦勝祈願

そして、関ケ原の合戦では、江戸を発つ徳川家康が神田明神に戦勝祈願をしたそうです。

さらに1601年から江戸幕府では五街道を整備。そのうちの1つが中山道で、神田明神の前と関ケ原を中山道が結んでいます。

神田明神の鳥居とお店を挟んで隣にある道路が、実は中山道の一部です。もちろん、鳥居の前の通りの秋葉原方面も中山道です。

「もうすぐ1300年の神田明神とこれだけご縁のある自治体は岐阜県以外になかなかないでしょう」とした北村さんは、続けて連携事業の説明に移りました。

4つの連携事業

発表時点での連携事業は以下の4点です。

  1. 所蔵品の展示
  2. 講演会・イベントの開催
  3. 「中山道」のつながりを活用
  4. 情報発信

連携1の所蔵品の展示は、双方が所有する歴史的な作品やその複製品を互いに展示できるように。

一例として、岐阜県側からは関ケ原合戦図屏風(複製)や甲冑(複製)、神田明神側からは歌川広重の「東都名所 神田明神東阪」や「東都名所 神田明神」が上げられていました。

連携2の講演会・イベントの開催は、第1弾として岐阜関ケ原古戦場記念館の館長でもある歴史学者・小和田哲男教授の講演を、2023年12月20日に神田明神文化交流館で計画しています。この後もさまざまなイベントが企画されていくことでしょう。

連携3の中山道のつながりの活用では、岐阜県内の中山道にん凝る往時の風景の紹介や、地域の食文化の特産品の紹介・販売を企画しているそうです。

地域の食文化「五平餅」や「栗きんとん」などの中山道沿線の特産品の販売も企画しているとか。

連携4の情報発信としては、岐阜関ケ原古戦場記念館の公式Webサイトと神田明神の公式Webサイトで、双方の情報発信を進めて行くことを検討しているそうです。

2030年には、岐阜関ケ原古戦場記念館は開館10周年・神田明神は創建1300年と、ともに大きな節目を迎えます。ここに向けて連携を進めていきたいと考えています。東京では神田明神の会場をお借りし、随時やっていきたいです」と北村さんは語りました。

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関ケ原関連のイベントがずらり

次いで北村さんから、直近のイベント情報のアナウンスがありました。

大関ケ原祭2023のメインイベントは10月14日(土)・15日(日)

岐阜県と関ケ原町が主催する「大関ケ原祭2023」は9月9日(土)から開催していますが、そのメインイベントが10月14日(土)・15日(日)に行なわれます。

14日(土)には関ケ原研究会設立記念トークショーとして、歴史学者の磯田道史さんと小和田哲男さんのトークショーが行なわれます。また、古式日本刀鍛錬の実演・体験会をはじめ、さまざまな催しが予定されています。

15日(日)には東西人間将棋が。日本将棋連盟の前会長でもある佐藤康光九段が東軍大将として、立命館大学から初めてプロ棋士となった冨田誠也四段が西軍大将として対局します。

さらに、2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では今川氏真を演じた溝端淳平さんを迎えたトークショーなども企画されており、歴史ファンや歴史を元にしたエンターテインメント・ゲームファンの楽しみが揃った2日間となりそうです。

人気ゲーム「信長の野望」のコラボが実現

大人気ゲームシリーズ「信長の野望」の40周年記念作であり同シリーズ初の位置情報ゲームとなる「信長の野望 出陣」では、10月14日~15日限定のコラボとして、ゲーム内で古戦場を巡りながらミッションをクリアすることで、当日のイベント参加者限定グッズがプレゼントされる企画が行なわれます。こうしたコラボは全国の自治体で初めてとのこと。

10月14日(土)・15日(日)はスマートフォン片手に古戦場を歩き回るファンが多く見られるかもしれませんね。楽しいコンテンツとなりそうですが、歩きスマホはダメ、絶対です。

小和田教授と神田明神 禰宜(ねぎ) 岸川 雅範さんの対談

続いて、このたびの連携を記念して、小和田哲男と神田明神 禰宜(ねぎ) 岸川 雅範(まさのり)さんのスペシャル対談「岐阜県と神田明神のつながりと歴史的な意義」が行なわれました。

戦勝祈願と神田明神

まず、岸川禰宜から関ケ原の合戦と神田明神の繋がりについて

家康は神田明神に戦勝祈祷をしたということと、関ケ原の合戦の決着がついた9月15日は神田明神の祭りの日という共通点がありますね」と語りました。

戦勝祈祷をしたことについて小和田教授は「関ケ原の戦いのときに、家康が戦勝祈願をどこでやったか、を読んだ記憶がありませんでした。このたびの神田明神との連携に際して『神田明神読本』という本を読んで、出陣にあたって戦勝祈願をしたという記録があったのを見つけたのです。岸川さん、これは口伝ですか?文書がありますか?」と岸川禰宜に確認。

岸川禰宜は「文書としては残っていませんが、寛政年間(1789年~1801年)の神田明神の由緒書(ゆいしょがき。ものごとの由来などを記したもの)が残っていました。具体的に、家康がどう行ったのかまでは書いていませんが、家康の命令で行なっただろうことが示されています」と返します。

小和田教授は「これは貴重な事実です。慶長5年9月1日に江戸城を出立した家康は、どこかで戦勝祈願をしたはず。当時の神田明神は江戸城内にあって、その後駿河台に移って現在地に移っていますが、当時の状況から神田明神にお参りしたのは間違いないだろうと思っています」とまとめました。

中山道と岐阜県と神田明神

江戸時代に整備された中山道は、神田明神と関ケ原を結んでいます。

岸川禰宜が「神田明神の前の通りが中山道。中山道は江戸城に通じる御成街道です。秋葉原の万世橋の辺りは今も賑やかですし、江戸時代からその賑やかが残っています」と中山道の様子を語ります。

関ケ原の合戦と中山道と言えば、徳川秀忠の遅参を思い出す人も多いでしょう。

小和田教授は「関ケ原の戦いで、家康の本体30000人は東海道を通りました。対して秀忠は38000人を率いていました。つまり、本来は秀忠軍が徳川の本体だったんですね。でもこれが信州上田城で真田昌幸の作戦に引っかかり、遅参しました。

一方、家康はある段階で、岐阜の方から関ケ原に近いところ、大垣に近い「岡山」に本陣を置きました。そこから関ケ原へ向かったときに中山道を通っています。

関ケ原にほど近い赤坂宿・垂井宿をこのあいだ歩きましたが、雰囲気が残っていますね。家康も中山道を歩いているし、神田明神の前に中山道が通っているというのは、現場を歩いたからこそ、繋がりを強く感じました」と中山道について説明しました。

平将門との関係

最後に平将門・岐阜・神田明神の関係について二人が語りました。

平将門の首は七条河原に晒されましたが、そこから首が東に向かって飛んだ、という逸話があります。

そして、将門の首が関東に戻っては大乱が起こると信じた美濃国の南宮大社で行なった祈願の後、東へ向かう将門の首を矢で射落とした、それで落下したのが大垣の御首(みくび)神社だといわれているのです。

小和田教授は「南宮大社にそうした伝説があるというのは興味深いですね。平将門と岐阜がそう繋がっているのは勉強になりました。

日本の歴史を追いかけると京都・大阪・奈良が政治の中心で、東国は遅れています。平将門は東国で新しい国を作ろうとし、その流れで源頼朝が鎌倉に軍事政権を作り、家康が江戸で幕府を作りました。その流れの一つで神田明神ができているんです」と、政治の世界と神田明神の繋がりを説明します。

連携の意義

最後に、岐阜県と神田明神の連携についての意義を聞かれた二人は「岐阜と東京、距離は離れていますけれど、歴史的につながりが深いことがあきらかになりました。こうしてコラボできるのは新しい試みだと思うし、東京の人も関ケ原古戦場記念館を訪れてくれると思うが、家康が神田明神で戦勝祈願をしたことを語り継いでいきたいですね。ご縁を得られたことはうれしく思っています」(小和田教授)

「徳川家康が戦勝祈祷のため神田明神に来たことを疑問に思ってはいたが、小和田先生にお墨付きをいただいたのでどんどん伝えていきたいと思います。これからは私も岐阜を訪れ、神田明神の話・岐阜との関係をお話していきたいですね。将門・頼朝から家康へ繋がる歴史は開拓の精神を感じます」(岸川禰宜)

と語り、対談は終了しました。

新たな歴史の掘り起こしを

対談のあと、岸川禰宜は「神田明神は東京のど真ん中にあって人が集まりやすいものです。そうした場所でいろいろな自治体の情報発信をしていただきたいと考えていたこともあり、今回の連携を受け入れました」と語り、歴史の情報発信地としての神田明神の新たな在り方についても言及。

繰り返された大火で江戸初期の神田明神の資料が少ないこともあり、他の文献・小和田教授の研究や岐阜の資料などからも新しい歴史の掘り起こしがあることを期待されているようでした。

関ケ原の合戦について新しい事実が分かる機会が増える期待、そして、東京でそうした情報を多く得られるようになるかもしれない期待、さらに、関ケ原を訪れることで楽しみが増える期待。こうした期待を感じさせる、岐阜県と神田明神の連携発表でした。

神田明神

所在地:東京都千代田区外神田2丁目16-2

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